心理物理学とテンセグリテー
心理物理学とテンセグリテー
「かたかたちわざ」と射の「型」
内にある道具:骨に意識を向けて思う事
「骨は人の持つ道具」として位置付け、筋膜、筋、筋肉、皮膚、体液、呼気と関節で、弓を手にして矢を射る「動態の骨格を組む創意工夫」には、身体に一定の重力が静態として常にかかり、「連続的に引き絞る弓力の位置と大きさのと接触点の変化」と「呼吸の変化、心気の動きなど」の動的状態が、射手と弓箭と大地の力学的系の動作状態と現れる姿に想定されます。会の状態は静態の中のベクトルの動態が身体の一点でバランスしており、離れは其の一点起こればその点は微動だにしません。このような道具を使う動作はみません。それによって弓箭を扱う意図が達成されればそこに「型」が意識すると思います。梅路見鸞師は「武禅」で大正の末頃から「射に起こる力の現象」を、単なる物理的解釈で終わるのでは無く、心理物理学という見地から専門学者に研究を指示している事を述べています。バックミンスター・フラーがテンセグリテー理論を提唱した時期に重なり、「かたかたちわざ」を考える範囲を広げています。
弓を射る縦横十文字の骨格の中を走る「骨力の直線性」を想起するのに、「皮膚や筋肉、体液、呼気に包まれた骨格が直になるようにする」骨法の理は、「人の心気が呼気と一体」になってその「直」の真正を限りなく極限にするのは、物理的な動作で知覚・動作できず、身体内を頭の天辺から足先まで瞬時に伝わる電子情報などによって、それを知覚する無意識に自律神経の生理反応によって、射手の全身が動的な直に統御され働き、人智を超えてた発と射の発現が、自然、為されると想定すれば「心理物理学というヒト特有の力の実態」が浮かぶのかもしれません。当然、その心気は電子的なオーラとなって外部の世界と物理的に結びついているので、彼我を分けない、自他を乖離させない、一元論的認識と一元論的行動の様相を射は内在するとりかできます。射の限らず合気道や他の技の図り知れない技の作用と力の根源もそこにあると勝手に類推します。
射の「かたかたちわざ」から「かたかたちわざ」とは何かの問いへ
昔、強い弓など意識に無い時、称号者に本多師の骨法にかかわる資料を戴き、「骨法」「骨法」と云われても実践に結びつける事が出来ませんた。周りを伺っても六分の弓さえ引く方は稀でした。骨法骨法と云われる方ほど弱い弓であったと今はおもいます。
今、「骨を体の中に在るう道具」「弓箭を体の外にある道具」、 二つの道具を結ぶのが「意識、筋肉、筋、皮膚、体液、呼気と不明の”気”」を要素に考え、その「射の理」の本は「骨法」にあり「骨法は自然の理」に基ずくことが理解でき自然の理が何か問えば、上記の如く自然、原子、分子宇宙へと意識は飛びます。その観点から「骨法の具体的動作」を考えれば、精神や心理、呼吸や命、命は物質と生命の狭間を透してあること事を想い、物質と心の二元論と、一元の世界観に触れながら、射の実践は果てなく進みます。
昭和の初期、梅路見鸞師は道法として「弓道」を明断し、骨法は自明として「意識と筋肉」について技を示されてた愚考しています。戦後の書に”射は筋骨を以て力行する”との筋骨と並列された表現に会うと、戦前の骨法の射とは何が同じでなにが異なるのか自問します。戦前、梅路師の射法七要諦に「骨」が無く「弓箭を自由に自然に働かす」「筋肉を自由に自然に働かす」と弓箭と身体を独立させ、筋肉が射の主体になっている事に「何故、骨力で無く筋肉なのか」と問わざるを得ません。骨を統率し動かす筋肉を云われる事を兼ね合わせて射の力の本を尋ねれば、そこに「骨法」の真意が」浮かびます。詰まり道具に係るなと受け取れます。まさにその事が弓の力を意識させず、一意に弓を押し開く動作に意識を集中させ、強い意味も引けるようになると今は思います。決して骨法を無視しているのではありませんが、本多利実師や阿波見鳳師の見解にもあまり骨法にこだわっていない「日本の射の捉え方」が気になっていた、私の射の風景です。
身近には、射法射技の基本にある骨法を念頭に、先哲の文言に向き合い理と実の両輪が必要と自覚したのは、一度も、骨法等と云われなかった先生の実践を見、両手の内とカケの使い方を模式的に示して戴いた以外になく、先ずは教本に何故と問いかけて、教本 を学びなさいと示唆を戴きのが始まりでした。高穎師や林坊師、本多師の射法理論に道を開いていただけたのは、弦を取って正しい道を示される先生の見守りや、弓友との自主的な稽古と思います。今は、射では骨法や自然の射などは自分なりに見解を持ちつつ更に進めていますが、八節の技を知った初心の方には「骨法」について問い掛けられれば、実践の中でお話しできるよう工夫します、それも又、射の理の理解を進む楽しさがあります。
射学正宗、高穎師 「的中には何を基準にすればよいか、それは形も寸法も変わらない自分の中にある骨を基準」にするという射法理論は強烈な示唆でありました。骨は自分の中にある道具と思うえば、射に関わらずすべての動作に考えを巡らせ、何故、人は骨を持ったかなど、問は次から次に巡り、何故、地球には重力があるのか等宇宙論の中で人体を考える事にも考えはめぐります。
そのれは「かたかたちわざ」の本質を考えさせることになります。地球の上に生きる第一は、地球の重力に抗して、如何にして”座る・立つ”かであったと思います。ですから人類の最初の道具の一つは骨と云う事になります。もう一つの道具は意識でしょう。無限の広がりと可能性を有する無意識と記憶の中から筋肉やや器官を動かす意識と云う道具でしょう。