社会の事物
自然の姿かたち、変化の本質を知りたいと思う様に歴史を俯瞰すれば人の生活もまた、宇宙や自然と同様に、文明や文化の変化と多様性を認識しその識別に「型」を据えます。
社会の事物は、取巻く風土や積重ねた生活の歴史の中に据えられた「型形技」をもって認識します。時代時代の事物も「型形技」をもって接します。自然の事物・風土に創意工夫して施して生活を潤します。新しい「形」は常に生まれ消滅し、再構築され、又、時代に即した新しい型を想像し、あるいは新しい技を発明し新しい姿を表します。
その原動力は「心」に依存する意識無意識の世界の生の欲求であれば、その心とは何かが課題です。価値観と共に新しい「型」を時代に据えて、再生産して複雑化、あるいは単純化して、時系列の比較によってその変化と存在の必然性を問われます。
心に映るモノ
目に見える自然や社会生活に触れて、見て、聞いて、一の人に後天的に得られる認識は、先天的な人体の性能に支配された認識と識別と云う体内の作用が、記憶の機能(再生と再構築)・能力(科学的に言う分野と容量)が他の生物との比較において、人の最も特徴といえるのでしょうか。云えるように思えるのは比較区分の世界の事で生物的な自然界の事象としては判断できなえ無いという事が良いと思います。
目に見えない意識や心に生じる感情はどうでしょうか。心理学や精神学なども、人の意識・心・動作・表情・生理的症状等に「型、形」を与えて、人の接する技を工夫して、目に見、音に聞き、手に触れて理解します。
神と人を結びつける技:信仰や宗教は見えない世界に接する道具であり巫女や神官や仏師はその技を身に着けた人と理解できます。信ずると云う心の働きに「型」を据えて行う神事、祭事等の「技」 用いる道具の姿・形も同じです。「型」内在する「技と姿形」はその生まれ出でた同質性故は、姿形・技に不可思議な多様性を主張して争います。
型の様式、行動やしぐさに「何故と」とその行動や様式の真実を心の底から来る叫びを以て問えば、人の意識の本源に対峙して、型・形・技の必然性の真理に純真に触れることは誰にでも出来ます。先ず、「かたかたちわざ」から得られる欲望から離れ、心の叫び :生の欲求に触れる事から始まるのでしょう。
もとより型・形・技 等無く、自然にある一個の生命体として出発する意識の自在性を感じます。